或る暑い夏の夜。
暑さで眠れなかった僕は、とてもとても好きだった人の名前を思い出した。あの時とはまるで別の生き物のようになってしまった冷めた自分に気付く。不思議と哀しくはなくて、ただ、逢いたいと思ってしまった。
今は全然違う世界に住んでいる、あの人に逢いたいのだと。
あの人は僕の少ない知識では表現できないくらい純粋で綺麗な人だったと思う。たとえ他の人が何と云おうと。僕にとっては永遠の存在に等しい。こういうのが「かけがえのない」って云うことなんだろうかと、そんな事を考えながら僕は眠りについた。
僕は道を歩いている。分かれているように見えて、一本道でしかない変化のない道。
花が咲いている。何と云う花なのかは分からない。誰も教えてくれない。自分で調べようとも思わない。知りたいと思っているのに。いつの間にか自分の欲しいものすら欲しいと言わないようにしてきた気がする。そうでないと生きられなかったから。何も考えずに他人の支配を受けることに抵抗を覚えてはいけなかったから。
だから、僕が本当に欲しいと思ったのはあの時だけだったのだと思い出す。
「貴方が居れば他に何も要らない」
そんなくだらない三流の恋愛小説の言葉すら僕の一部と化してしまうほど、何かが麻痺していた時。
其れに気付かない振りをしなければならなかった。僕は何を手に入れたとしても、僕であることに変わりはない、変わってはいけなかった。だから、何かを欲しいと思ってはいけなかった。思っても、手に入れることは出来ないと知っていたから。
道が途絶えている。どうやって行けばいいのか分からない。
この先に行かなければならないのに。
それだけしか記憶がない。
あの人に、逢わなければ。
<続>
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